=旧長崎村の歴史を訪ねる=



  (1) 城西学園(じょうさいがくえん)

 1981(大正7)年に城西実務学校として設立、今年創立83年を迎えています。今も校庭に、校舎と生徒を見下ろすようにゆったりとそびえ立つ椎の木があります。大正時代に自由主義教育に運動が高揚する中、その運動の指導者野口援太郎を校長に迎え、崇高な理想を揚げて学校づくりがなされました。それは全国から注目された自由主義教育をめざす「椎の木学校」(小学校)の中学校版でした。
 その当時の椎の木はすでにありませんが、長い間何代かにわたり椎の木は、自由主義教育のシンボルとしてあたたかいまなざしで校舎と生徒を見続けてきました。ファシズムの嵐が次第に強まってくる昭和のはじめ、中学校に軍事教練が義務付けられたとき、野口校長以下教職員は、「学校は教育の場であり、人殺しを教えるところではない」として、将校の配属を拒否し、その後も軍事教練を行いませんでした。これは平和を愛した城西の誇りとして今も語り継がれています。
 また、野球部が30年前と25年前にわたり甲子園出場を果たしたとき、地元の多くの方々が熱烈に応援してもらいました。

  (2) 御獄神社(みたけじんじゃ)

農業が盛んだったころ、長崎村では干ばつになると、青梅の御獄神社に参拝て水を持ちかえり、雨乞いをしました。竹筒にいれた水を持ち、太鼓をたたきながらリレー式に村内を雨が降るまで走り続けたそうです。

  (3) 五ツ又道 (いつまたどう)

小さい道が五つにも別れるという珍しい交差点。城西学園から来て五ツ又道を左に曲がり、100mも行くと「地蔵堂」があります。かつて「地蔵堂」の縁日は、長崎村でもっともにぎわいました。
長崎神社に西側を北に向かい、もの五ツ又道を左に折れ、城西学園の前を過ぎ高松の富士塚を右に見て進むと板橋に着きます。川越街道に交差する手前に桃の木がたくさんあったところから、この道は桃並木道と呼ばれるようになりました。
その道が新しいか古いかは、その道沿いに神社があるかどうかで見分けられます。長崎を通る道沿いにはたくさんの神社があり、何れも古い道であることをもの語っています。

  (4) 長崎神社 (ながさきじんじゃ)

 旧長崎村の総鎮守。江戸時代には十羅殺女社(じゅうらせつにょしゃ)といい、1733(享保13)年の手水舎(ちょうずや)に十羅殺女社と彫られています。同村に伝わる獅子舞は、「長崎神社獅子連」により現在も継承されています。
 かつては真和中の生徒が伝承していましたが、今は城西中高の生徒が獅子舞継承の手伝いうぃしています。毎年第二日曜日の長崎神社の祭礼時に舞われています。
 また境内には、長崎村から日露戦争(1904)に出征した60名すべての氏名が、石碑に記録されています。
 1923(大正12)年の関東大震災では鳥居が倒れ、その時の石柱の一部が残っています。現在の鳥居は、その後作られたものです。

  (5) 帝銀事件後 (ていぎんじけんあと)

 1948(昭和23)年1月26日、帝国銀行椎名町支店で死者12名をだす毒殺事件が発生しました。真相が解明されず、迷宮入りとなっています。
 帝国銀行椎名町支店は、長崎神社の西側にありました。現在、マンションが立っています。

  (6) 金剛院 (こんごういん)

 寺の正しい呼び方は、「蓮華山金剛院仏性寺」宗派は真言宗豊山派。1522年に真言宗の聖弁和尚によって開かれた。元禄の時代に火災にあい、800mほど離れた現在地に再建されたと伝えられています。
18世紀の後半、江戸ではたびたに大火事が発生し、罹災者が発生しました。金剛院は罹災者を寺に収容し、多くの人々を助けました。そのことが将軍の耳に入り、特別に朱塗りの山門の建設を許可されたとのこと。これが今の「赤門」です。境内には、1440年6月24日の銘の入った板碑が二基あります。板碑とは、石の塔姿のことで、中世に死者を供養してつくられた。

  (7) 長崎不動尊 (ながさきふどうそん)

 金剛院の山門前に長崎不動尊があります。今でも地域住民により信仰され、縁日は、毎月8の日で、当日は露店がならび賑わいます。
 不動尊の前に、200年前から人々を見守ってきたお地蔵さんがたっています。
 「北は下板橋にいたる」の石碑があります。4km先に中仙道の板橋宿がありました。

  (8) 椎名町駅・上が屋敷駅 (しいなまちえき・あがりやしきえき)

 武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)は、1913(大正2)年に着工し、2年後に池袋・飯能間が開通しました。1922(大正11)年には前線電化し、1923(大正13)年には池袋・練馬間が複線化されました。また地元の要望により1924(大正14)年6月11日に池袋・東長崎間に椎名町駅ができ、さらに5年後には、池袋・椎名町間に上がり屋敷駅ができました。椎名町駅は今年、80周年を迎えています。上がり屋敷駅は、1945(昭和20)年に廃止されました。

  (9) 天祖神社・鼠山 (てんそじんじゃ・ねずみやま)

 荒井、大和田、椎名町(現在の南長崎1丁目、2丁目、3丁目、目白4丁目、5丁目)の3つの村の鎮守さま。
 共同で秋祭りを行ってきました。
 この近くに鼠山といわれる小さな山がありました。太田道灌が豊島氏を石神井城に攻めたとき、江古田、沼袋の決戦場に向かう途中、この山に寝ずの番を置いたといわれます。寝ずの番をしたところから、「寝ずの番」⇒「寝ずの山」⇒「ねず山」⇒「鼠山」に変わったといわれる。真偽のほどはいかに。

  (10) 子育て地蔵尊 (こそだてじぞうそん)

 江戸時代中期の1710(宝永7年)に開基されたもので、地蔵菩薩を祭っています。地蔵菩薩はあらゆる人々を病気や苦しみから救うといわれていますが、江戸時代にはとくに"子供を救う"という信仰がおきて、「子育て地蔵」「子安地蔵」等の名をもつ地蔵尊となって庶民に親しまれてきました。巣鴨の「とげぬき地蔵」も人々を救う地蔵菩薩を祭って、今も人々の信仰を集めています。

  (11) 岩崎家住宅 (いわさきけじゅうたく)

 江戸時代末に建造。清戸道(目白街道)に面し、肥料や糠(ぬか)を商っていた。馬車のたずなを止める杭が残されています。今でもお宅の方には、樹齢200年のけやきがあります。かつては、村のどの農家の庭先にもけやきがありました。
 1918(大正8)年にいったん解体されましたが、その後当時と同じ様式で再建されています。

  (12) 清戸道(目白街道) (きよとみち)

 現在の文京区江戸橋から清瀬市清戸までの5里(約18km)の道のり。江戸時代中期から、練馬大根などの野菜を江戸の市場へ出荷する道筋でした。
 当時の江戸の人口は約100万人。江戸の人々の胃袋を満たすための食糧を積んだ荷車や牛馬が盛んに行き来しました。

  (13) トキワ荘 (ときわそう)

 日本を代表する漫画家の手塚治虫はじめ、赤塚不二夫・藤子不二雄・石ノ森章太郎・寺田ヒロオらのメンバーが、南長崎にあった木造モルタル二階建てのアパート「トキワ荘」で青春時代を送りました。当時の建物は、解体されてありませんが、ものアパートは、現在も続くマンガブームの発祥の地といえます。

  (14) 新目白銀座 (しんめじろぎんざ)

 大正から昭和にかけて、武蔵野線(現西武池袋線)沿線は、新興住宅地として発展しました。箱根土地株式会社(現西武鉄道)が目白に分譲地を造成し販売して大当たりすると、地元の大野土地社がこれにあやかり、「新目白」の名称で長崎のこの地で分譲住宅を販売しました。石碑はその時の住宅建築の記念碑です。

  (15) 長崎アトリエ村 (桜が丘パルテノン)

 長崎アトリエ村とは、長崎、千早町、要町に点在した100を越すアトリエ付きの借家群の総称で、なかでも「桜が丘パルテノン」は最大のものでした。
 当時、画家や彫刻家・詩人などの若い芸術家たちが、安い家賃でここに多数移住していました。桜が丘パルテノンだけでも80軒ほどあった家には、それぞれ桜の木が植えてあったのでその名がついたといわれます。「原爆図シリーズ」の丸木位里・俊 夫妻もここで暮らしていました。

  (16) 西向不動尊 (にしむかいふどうそん)

 長崎村には、多くの不動尊、馬頭観音がありますが、その多くが西向きです。
 これは中世期に、長崎周辺で出城を守る練馬氏の家臣が、西側にある主君の居城(現豊島園)を正面に向けて作ったためといわれています。

  (17) 庚申塔 (こうしんとう)

 病や疫病を払うとされる庚申塔は、長崎村にたくさん残っています。もっとも古い庚申塔は、長崎3丁目にあり1662年(寛文2年)の年号が刻まれています。
 この時代の村人は、旧暦の庚申(かのえさる)の夜、寝ないで夜を過ごし、長生きや極楽往生を祈りました。その祈りの席には、お酒やおいしい御馳走が用意され、村人にとっては楽しい行事のひとつでした。

  (18) 観音堂 (かんのんどう)

 金剛院の境外仏堂。

  (19) ダットケ原 (だっとがはら)

 日本の自動車産業の発祥の地は、この長崎(現・東急ストアの地)にあちました。自動車の国産をめざす機械エンジニアの橋本増治郎が1911(明治44)年に東京麻布に自動車の修理工場を兼ねた町工場を設立。国産の自動車DAT(脱兎のごとく走る)の製作をはじめ、1914(大正3)年に完成し、上野公園の大正博覧会に出品しました。工場が麻布から長崎にいつごろに移転してきたかは不明ですが、日産の社史には、1918(大正7)年の長崎の工場の写真が載っています。
 車は、1917(大正6)年に「ダットソン」(ダットの息子)と命名されましたが、翌年には「ダットソン」は、"損"に通じるということで、「ダットサン」(太陽)と改名されました。現在の日産自動車です。

  (20) 熊谷守守一美術館 (くまがいもりかずびじゅつかん)

 日本画壇屈指の名画家である熊谷守一(1880〜1977)の旧宅跡に、次女で画家の熊谷榧(かや)さんが建てた美術館です。守一の絵画や書などが常設展示されています。熊谷守一美術館は、守一の郷里である岐阜県にもあります。

  (21) すずめが丘 (すずめがおか)

 竹やぶがあり、雀がよく飛んできたことから名付けられた。一番古くからあるアトリエ村で、松本竣介、寺田政明、斉藤求、入江比呂、山下菊二らが住んだ。
 近くに培風寮があり、靉光、寺田政明、画家、詩人、彫刻家立ちが住んだ。

  (22) つつじが丘 (つつじがおか)

 つつじの生け垣で囲まれていた。入江比呂、峯孝らが住んだ。すぐ近くに、谷端川の源流である粟島神社(弁天様)がある。
 アトリエ村に住む画家や詩人は貧困者が多く、家賃に窮する者も多かった。家主は家賃収入が確実な芸大の学生を入れたがった。

  (23) 自由学園 (じゆうがくえん)

 1921(大正10)年に羽仁もと子、吉一夫妻によって創られた。キリスト教に基づく特色ある教育を行った。校舎は、建築家フランク・ロイド・ライトの設計によるもので、一昨年、国の重要文化財に指定された。


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