=旧長崎村の歴史を訪ねる=



  (1) 中世において、有力者である豊島氏が、練馬城や石神井城を中心に、現在の豊島、練馬、板橋、文京、台東一体を支配した。これが豊島区の名称の由来となる。

  (2) 鎌倉時代(12世紀〜)源氏が関東を支配したとき、戦で活躍した伊豆韮山出身の長崎氏にこの地を与えたことから長崎とよばれるようになった。その後、幕府が全国支配したあと、長崎氏に肥前国(長崎県)が与えられ、その結果、長崎県とよばれた。

当然のことながら異説がある。

その1→ 地形の飛び出している部分を「崎=サキ」といい、長い舌状の突端(長崎神社のあたり)が長崎といわれたとする説。
その2→ 鎌倉時代に幕府の実験を握っていた執権北条氏の家臣で内官領の長崎高資(ながさきたかすけ)の領地だったことから、この地が長崎といわれたとする説。

  (3) 旧長崎村には、300年の伝統をもつ獅子舞がある。長い間、豊作と無病息災を祈る地元の人たちにより伝承されてきた。
城西中高に5年前「長崎獅子舞研究部」が創設され、地元の人の共に獅子舞の継承を継承している。

城西中高に5年前「長崎獅子舞研究部」が創設され、地元の人の共に獅子舞の継承を継承している。

  (4) 要町の粟島神社を水源とする谷端川(やばたがわ)が旧長崎村を流れている。今も椎名町サンロード商店街通りの地下を流れている。

  (5) 旧長崎村一帯は江戸時代(17世紀〜)から明治、大正のころまで、キュウリ、ナス、大根などの一大生産地で、神田の市場まで毎日大八車や家畜により大量に運搬された。とくに大根の特産地だった。

練馬大根の元々の発祥の地は、この長崎だといわれている。当時の写真が区史に載っている。

  (6) 1923(大正12)年に起きた関東大震災のあと、新興住宅地(ベッドタウン)となり、長崎村も人口が急増した。

長崎小学校近くに「新目白銀座」の住宅記念碑がある。

  (7) 国産車のダット号(DAT号・後のダットサン)は、この地長崎で生産された。創業者橋本増治郎宅お近くにあります。

今や世界有数の自動車生産国の日本。国産第1号は、この長崎の地で生産された。そこは「ダットケ原」といわれた。西武線の東長崎駅近くに生産工場があった。現在の東長崎駅に隣接する豊島ハイツ、東長崎西部ビル、東急ストア、西部鉄道長崎電気区のおよそ5千坪の土地。

  (8) 西部池袋線と平行に走る清戸道(きよとみち・現目白通り)は、関東大震災後に産業道路となり、周辺には下町から多くの工場が移るようになり急速に工業化が進んだ。

多くの練炭工場が下町から移ってきた。マルキン自転車の工場もできた。鹿島建設の社宅も建ち、大和田通りなど周辺の飲み屋や休息所など、夜の街が大いに賑わった。

  (9) 長崎村には、昭和の初めから太平洋戦争の敗戦まで、若く貧しい画家や詩人が集まり、「アトリエ村」あるいは「池袋モンパルナス」と呼ばれた。

「すずめが丘」「さくらが丘」「つつじが丘」を中心に、アトリエ村、あるいはパルテノンなどと称され、その他小規模なアトリエを含め、実に多くの若き芸術家たちが集まった。

  (10) 若き日の手塚治虫をはじめ、赤塚不二夫、藤子不二雄、石ノ森章太郎、寺田ヒロオらが、マンガにかけた青春時代を送ったのは椎名町の「トキワ荘」だ。

「椎名町という地名を聞くとトキワ荘がくっついてくる」(評論家 石子 順)

  (11) 白樺派の小説家武者小路実篤は、空想的社会主義の実権場として宮崎県の本城村とともに豊島区長崎村高田(現在のハタボール周辺)に「新しき村」を創った。

  (12) 大正、昭和初めに、池袋から長崎村にかけて、成蹊実務学校(板橋小弥太)、自由学園(羽仁もと子)、池袋児童の村小学校(野口援太郎)など特色ある私立学校が創設された。

  (13) 1918(大正7)年に、日本運輸会社(現在の日本通運。金原明善社長)の幹部養成学校として城西実務学校が創立された。創立者は、貴族院議員中島久万吉。実務は竹内龍雄。成蹊実務学校を模範とする。

  (14) 第一次世界大戦後の1923(大正12)年に、野口援太郎を中心に「教育の世紀社」が創立された。「教育の世紀社」は、子供の個性と自発性を尊重する自由主義教育運動の実験校として、「池袋児童の村小学校」を野口に自宅に創設した。

  (15) 城西高校野球部が、二度にわたり甲子園出場を果たし、地元に人々の熱烈な応援をうけ晴れ舞台で活躍した。1974(昭和54)年と1979(昭和59)年。


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